文政6年~元治元年1823-1864年
周布政之助は、村田清風の流れを汲む政治家です。
激動の幕末期、長州藩の実質的指導者として、難局の舵取りを行いました。
また、イギリスへ五人の留学生「長州五傑」(長州ファイブ) を送り出し、日本の近代産業の発展にもつなげています。
幕末から明治維新において、大きな働きをなした長州藩。しかし激動の時代に藩内も大きく揺れ動き、戸惑い、争い、苦悩していました。このような困難な時代の中、藩の舵取りを行った一人が周布政之助でした。
明倫館に学ぶ志を磨く
周布政之助は阿武郡萩城下江向に周布兼正の第5子として生まれました。
名は兼翼、字は公輔、通称を政之助、号を麻田、観山、痩梅、沢江漁夫といいました。
政之助が幼少のころ、父兼正、長兄兼親が相次いで死去、また次男、三男も他家を継いでおり、四男も父より以前に死去、一人の姉も嫁いでいたので、末っ子の政之助は母と二人暮らしになりました。
周布家の家督を親戚一同で協議し、政之助に兼正の名跡継承を藩に申し出、周布家の継承を許されました。この時、禄高151石を減じて68石となりました。その後、母は政之助とともに母の実家である村田家を頼って、大津郡三隅村浅田に移り住みます。清風はこの村田家の分家で、政之助とは村田本家を通じて親戚の関係でした。
天保11年(1840)18歳で明倫館に入学し、文武の修業に励み廟司(館内の孔子などの聖賢の廟を管理する役で、優秀な生徒が任命される)に任命されました。政之助は若いころから藩政に関心を抱き、明倫館在学中に同志を募り「嚶鳴社」を結成し、時事問題への対策を討議するなど、村田清風の意思を継ぐ若手政治家として成長します。
藩政改革時代に挑む
村田清風の志をうけて、政之助は藩財政立て直し、兵制の改革に尽力しましたが、財政及び兵制の改革は、急激であったこともあり、厳しすぎる印象は免れず、武士、商人など藩内の反発が大きく、政之助への風当たりは日増しに強まり、安政2年(1855)謹慎となり、失脚してしまいます。失脚した政之助は、安政4(1857)年2月、先大津の代官に任じられます。当時、捕鯨で知られた向津具村川尻の不漁続きによる困窮を救うなど、大きな事績を残していますが、同年9月には再び藩の要職に復帰します。
安政5年(1858)右筆役に任ぜられて藩政の中心に復帰しますが、激動の時代が始まります。先の見えない状況下、現実的な対応と、吉田松陰や久坂玄瑞らの過激な理想論との板ばさみの中で、政之助は藩の舵取りに苦悩します。
政之助は、最も松陰を理解し、親しく議論を交わした仲でしたが、アメリカへの密航を企てたことで、松陰は野山獄へ投獄されます。その後松陰は一旦、実家に謹慎処分となりましたが、大老井伊直弼が日米通商条約を調印する頃から、松陰の言動が過激になったため、ついに政之助は安政5年(1858)12月26日松陰を再び野山獄に投獄。その後、松陰は江戸へ送られ、安政6年(1859)10月27日、処刑されました。
長州藩は文久元年(1861)長井雅楽の「航海遠略策」を藩の方針とし、幕府と朝廷の調整役として中央政界に進出します。しかし国元の考えとは違い、江戸藩邸では久坂玄瑞ら書生たちが、諸藩の尊攘派と連携し、過激な攘夷論へと動き出していました。松陰門下の久坂玄瑞らは長井雅楽を幕府擁護者とみて、敵視していました。政之助は幕府への不信感が強く、尊攘派と共感する部分もありました。同時に書生たちを有為の人材として惜しみ、保護します。
文久3年(1863)8月18日、長州藩をはじめとする過激な攘夷論に対し、会津・薩摩藩の公武合体派が、尊攘派を京都から追い落とす八月十八日の政変を起こしました。三条実美ら長州派の公家七卿は、長州藩を目指して都落ちしていきました。一連の出来事を非難した文書が幕府から諸藩へ流され、長州藩士は激昂。京都へ攻め上ることを主張する藩士を収めようとする政之助は苦悩します。
政之助は高杉晋作を藩士説得のため派遣しましたが、論争になり、高杉は脱藩、そして藩命により帰国後、野山獄へ投獄されます。その高杉を酒気を帯びて見舞った政之助も逼塞となりました。
政之助は逼塞、高杉は獄中、政之助と同じ考えの木戸孝允は京都と、京都への進発論を遮るものが誰もいなくなり、長州藩は京都へ進攻することとなりました。長州藩は薩摩・会津の兵と戦いましたが、敗退。久坂玄瑞は自刃、来島又兵衛は討死、これが世に言われる「禁門の変」です。
この禁門の変により、長州藩は朝敵の汚名を着せられました。政之助は、この責任は、酒気に乗じて高杉晋作を獄則を破って見舞い、その罪を問われ逼塞となり、大切な時に政務に参画できず、長州藩の京都進発を阻止することができなかった自分にあるとして、その責任を一身に受けていました。責任を感じていた政之助は仮住まいしていた山口矢原の吉富藤兵衛の家で、元治元年9月26日自刃します。
この後、長州藩は奇兵隊を率いた高杉晋作が藩の実権を討幕派に取り戻し、薩長連盟の締結、四境戦争を経て、明治政府樹立へと大きな飛躍を遂げました。
周布政之助の尊王攘夷策と長州5傑(長州ファイブ)激動の時を生きる
「攘は排也、排は開也、夷(外国)を攘いて後、国開くべし」
幕府は開国、朝廷は攘夷と揺れ動く中、文久元年(1861)、久坂玄瑞をともなって、東上する藩主敬親に進言しようとし、その路中箱根で詠んだ詩です。
政之助は無謀な攘夷論者ではありませんでした。攘夷後進んで海外の英知を取り入れ、開国するという、開国を前提とした攘夷が政之助の持論でした。攘夷思想が藩内を覆う中、政之助は、井上馨、伊藤博文らのロンドン留学に際して、「尊王攘夷は勿論にして……是は一旦日本の武を彼に示すのみ、後必ず各國交通の日至るへし、其時に當て、西洋の事情を熟知せすんは、我国一大之不利益なり」として、極秘に洋行させました。
長州ファイブとは
長州五傑といわれる
- 伊藤博文 初代内閣総理大臣
- 井上 馨 外務大臣や大蔵大臣を歴任
- 遠藤謹助 造幣局長
- 井上 勝 日本鉄道の父
- 山尾庸三 日本工業の発展に尽くす
の5人。伊藤博文、井上馨はすぐに帰国しましたが、井上勝は鉄道発展、遠藤謹助は造幣、山尾庸三は工業の発展にと、それぞれ大きく寄与しました。政之助の英断が後の近代産業の発展につながったのです。