天明3年~安政2年1783-1855年
清風は、藩主毛利敬親に抜擢登用されて長州藩天保改革の第一人者として活躍しました。
天保の改革では、藩外から収入を得る方向へと発想を転換しました。藩内産物をまとめ大阪で利益を上げる国産方や、下関を通る諸国の廻船を相手とした金融及び倉庫業の下関越荷方が設置されました。
五人の藩主に仕えて50年、行政官の超先達であり、その抱負、学識の深さは時代を超えていました。
清風が期待した政之助が藩政改革を継承し、更に吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允をと輩出する幕末長州藩革新派の原動力となりました。
明倫館に学ぶ学びのはじまり
清風は長門国大津郡三隅村沢江(長門市三隅下)に萩藩士村田光賢の長男として生まれました。
通称は亀之助、新左衛門のち四郎左衛門、織部と改めました。
名ははじめ順之、のち清風、号は松斎、東陽、梅堂などといいました。
父親は代官をつとめた人でした。
寛政9年(1797)15歳で藩校明倫館に入学、成績優秀で、文化3年(1806)給費生となり、明倫館書物方を命ぜられました。
仕官50年藩政に尽くす
文化5年(1808)26歳の時、藩主毛利斉房の小姓役を命ぜられて以来、斉房・斉熙・斉元・斉広・敬親の五代の藩主に仕えて50年、次第に要職に進み、藩政の枢機に参与しました。清風は進歩的革新的政治家で、常に人に先んじて世を憂え、国家百年の長計を策するとともに、必ずこれを実行に移す抱負と経論を持った大政治家でした。
江戸在勤中には塙保己一に学び、さらに兵学を研究し、林子平の「海国兵団」影響を受け海防問題に関心を持ちました。
文政2年(1819)37歳で家督をつぎ、以後御用所右筆添役・当職手元役・撫育方頭人等を歴任、天保2年(1831)表番頭格に列し、当役座用談役となり、藩政の要路を歴任しました。
天保9年表番頭として、地江戸両仕組掛となって藩政改革に着手、天保11年(1840)江戸当役用談役として本格的に天保改革を実施、主導しました。
とくに財政・民政に手腕をふるいましたが、弘化元年(1844)に坪井九右衛門らに主導権を譲りました。
しかし、その後の周布政之助らの改革に大きな影響を及ぼしました。
藩政を退いてからは、天保14年(1843)に落成した三隅山荘尊聖堂で子弟の教育に当り、他方「病翁 寝言」「遼東の以農古」「海防糸口」等多数の海防関係の書物を著わしました。
安政2年(1854)政之助の強い要望で江戸方海防仕組参与を命ぜられましたが、中風再発により萩の役宅で死去しました。
73歳でした。
剛毅で先見性に富むそして、次世代を育む
清風の性格は、誠実・剛毅であり、時代を見通す、卓見の持主でした。非常な勉強家であり、海保青陵の「稽古談」にも精通し、新しい経世家でした。
海防問題にも深い関心を示し、幕末長州藩の真の意味での先駆者でした。特に人材育成に力をそそぎ、明倫館の拡張、移転は彼の力によるところが大きいといわれています。
清風の門下生であった政之助が、その志を継ぎ、その系譜に高杉晋作が続くことになります。また、吉田松陰をよく理解したのも清風であり、周布も松陰を陰に陽にかばいました。
政之助の結成した鴎鳴社のメンバーは、皆清風の指導を受けていますが、特に土屋蕭海や中村九郎はよく清風宅を訪問しています。清風は若い後進に対しては厳しく叱責指導しました。
海防の必要を力説し、外夷に勝つ方策を必ず話したので「戦爺さん」とも呼ばれました。清風晩年の作である七言絶句「逸題」に尊敬した人物として、大和朝廷の初期に活躍した武内宿祢、元の兵士を撃滅した北条時宗、おそるるところなく天下に海防の必要を説いた林子平と掲げているのも、彼の時勢に対する認識がよく示されています。
清風の気概を示す歌があります。
“来て見れば聞くより低し
富士の山釈迦も孔子もかくやあるらん”
清風が20歳ではじめて江戸の地を踏んだときのものです。
清風が実際に、富士山を見たときに想像していたよりも富士山が低く見えた、ひょっとすると釈迦も孔子も思ったよりも大した人物ではないのではないかという気持ちが込められています。
村田清風と教育人づくりに尽力
天保の改革は藩体制の再編・強化を目的とし、その中心課題が財政再建であったが、それと共に長州藩では軍事力の強化と教育改革にも力点がおかれました。
清風は早くから教育の重要性に着目し、彼の著書の中で多くの教育観を述べています。
「病翁宇波言」(嘉永5年(1852))の中では、家中諸士一統の文武奨励という構想を示し、嘉永6年(1853)の「遼東の以農古」では、「御家来2,700人、足軽4,000人諸郡に散在して居れとも、数と云事なし、早く一郡の中央勘場近辺迄二里の内へ、文武のけいこ場、尚手習場、素読場を建、県令え都合を司らしめ、五常の道を四民え御教導あり度事なり」とのべ、軽卒や一般庶民をも対象にした教育の普及・徹底を求めましたが、これが嘉永2年(1849)の明倫館再建と一連の教育改革の基本理念でもありました。