村田清風と周布政之助の生涯と業績第一展示室
清風と政之助の生涯をイラストとパネルで分かりやすく紹介しています。
イラスト 広中建次さん
村田清風と四白政策第一展示室
江戸時代の山口県は、長州藩として防長二国36万9千余石を領有しましたが、関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏は財政難に対処するため、内政の充実と共に殖産政策に力を入れました。
中興の英主といわれる第7代の毛利重就(英雲公)時代は、新田の開発が進められ干拓に便利な瀬戸内海沿岸の開発が進み、また、室積、中関、伊崎新地(下関)などの交易港の施設も充実し、廻船業の発達も見られました。
このような、藩の歴代にわたる殖産振興のなかで最も代表的なものは、防長米、紙、塩の振興策であって、これを防長の三白政策といい、蝋を加えて防長の四白政策ともいわれました。
大阪市場では、これを特に防長の四郎兵衛(紙、蝋、米、塩)と呼び名声を博していたといわれます。
天保改革を推進した清風は財政再建のため、殖産政策に力を入れ、四白の増産を図りました。
特に清風は生ろうの専売制を止め、その販売を自由とし、新たに税を課して財源の増加を図りました。これまで四白(紙、蝋、米、塩)の販売は自由としていましたが、できるだけ藩の直営事業にして藩の収入を高める工夫をしました。
特に清風は生ろうの専売制を止め、その販売を自由とし、新たに税を課して財源の増加を図りました。
米を作る
防長米は、藩外に輸出され質量とも大阪市場に名声を得ていました。藩初の慶長検地においては、田の面積3万4千12両余に対し、石高42万2千622石余となっています。租率73%内外が貢租として収納され、大阪運送米として藩外で換銀される数量も8万石内外ありました。
その後、新田の開発による耕地の拡張や品種改良などによって生産力が上昇し、幕末期の風土注進案に記載する本藩領域の産額集計だけでも51万余石に達しました。早・中稲の早場米が主として大阪に輸出され、品質優良、規格厳正をもって名声を得ていたといわれます。
蝋をつくる
現在では櫨の木はかぶれるだけの無用の植物になりましたが、江戸時代はその実から木の生産が盛んで、大阪方面でも高い評価を得ていました。江戸時代には提灯が普及して和蝋燭の需要が大きく伸びたこともあって、藩は蝋の生産を強力に推進しました。
蝋の製法は、
- 1. 櫨の実を臼でつき、ふるいにかけて粉をとる
- 2. 粉をセイロで蒸す
- 3. 蒸したものを搾器で搾る
- 4. 搾った蝋を小鉢に流し込んで固める
これが生で、大阪へは、すべてこの生のまま出荷されていました。
紙を漉く
手漉和紙は、楮・三椏・雁皮などの植物繊維で作る強靭で耐久性のある紙です。
紙の製法は、
- 1. 刈り取った楷を「こうぞ釜」で蒸す
- 2. 冷めない内に皮を剥ぐ
- 3. 皮を五日くらい干す
- 4. 黒皮を削り捨て、アクを抜いたのち灰と一緒に釜で煮る
- 5. 川の水でアクや灰を洗い流す
- 6. それを棒で叩いて繊維を細かくし、トロロの根を砕いて汁にしたものを接結剤として混ぜる
- 7. 水を張った漉き槽に6を入れ、フノリのようにするき桁ですく
何枚も重ねて滴をとったのち、一枚一枚板に張って乾かす、という工程で作られました。江戸時代から明治初年までの山口県は全国一位の生産量を誇った和紙の生産地でした。
塩をつくる
近世における瀬戸内塩田の発達はめざましいものがあり、江戸時代後期全国68か国の内、塩を自給自足して得る国は8か国に過ぎず、残り60か国は多かれ少なかれ瀬戸内10か国の製塩によって供給されたといわれます。
このように製塩業が瀬戸内に集中していたのは、気候風土による地理的要素と近世における商業の発達と、直接的契機としては、入浜法の発明があげられます。
元禄12年(1699)、三田尻の古浜塩田で防長両国では初めて入浜法がとり入れられました。
村田清風と周布政之助の資料第二展示室
村田清風コーナー
清風は五人の藩主に仕えましたが、特に敬親に抜擢されて負債「八万貫」の大敵退治をモットーに産業の振興と財政整理を断行するとともに、文武の奨励に尽くし維新回天の礎を築きました。
周布政之助コーナー
政之助は激動の幕末に清風の跡を継ぎ、革新的政治家として藩内外の志士を指導し、安政以後の難局に対処しましたが、蛤御門の変後責任を痛感し志なかばにして山口で自刃しました。